中国人ならばたいてい、アヘン戦争以後の欧米、日本、ロシアなどの列強諸国の侵略、掠奪により、中国は貧窮国に転落したと信じている。

たしかに列強は中国に対して国家的脅威を与えた。

しかしだからといってこれらの国が、中国の財富を掠奪しただけではなかった。

 

近現代史を客観的にみれば、中国に近代産業を建設し、近代社会システムをもたらすなど、多大なる貢献を果たしたというのが史実だろう。

二十世紀前半の中国では、近代文明の恩恵に浴していたのは、外国のための開港地か列強の租界だけだった。

そこから十キロでも奥地に入れば、ほとんどが二千年前の古代と変わりない、カオスの原始中国社会だったのである。

これは当時の列強が抱いていた共通の中国観だった。

 

そうしたなか、特に満州での近代化建設は目覚しかった。

しかしその成果が明らかになるのは皮肉なことに、1945(昭和20)年に満州が崩壊してからである。

 

1949(昭和24)年に建国を宣言した中華人民共和国は、ソ連の援助によって社会主義建設の道を猪突猛進したが、実際はその援助だけで建設が進められたわけではない。

むしろ中国を侵略した列強の遺産、ことに満州国に残された日本の手による偉大なる近代化の遺産で食いつないでいたのである。

 

毛沢東は終戦直前の1945年4月、延安での中国共産党七全大会でこう述べている。

「もし我々がすべての根拠地を喪失しても、東北さえあればそこで中国革命の基礎を築くことができる」

今日の改革開放路線は、すでに満州国を食い潰してしまった中国が近代化を図るため、経済先進国の資本投資と技術に頼ろうとするものである。

 

中華民国政府は建国後、満州を「東九省」として九つの省を作った。

その後、中華人民共和国が誕生すると、西部は内モンゴル自治区などに編入され、吉林、黒竜江、遼寧各省だけを残して「東三省」とされた。

東三省の総面積は78.7万平方キロで、130.3万平方キロだった満州より減少したが、それでも全国の約8.2%を占めている。

 

もし東蒙(呼盟、興安嶺、哲嶺、赤嶺)を含む、いわゆる東北経済圏(旧満州)をみるなら、総面積は124万平方キロで全国の12.9%、1999(平成11)年末の人口は1億2000万人から1億3000万人と推定されている。

 

旧満州は戦後、ソ連の略奪や国共内戦での破壊はあったものの、その後も中国で最も先進的な地域であり、主要な工業基地であり続けた。

豊富な自然資源、発達した交通網と科学技術力を持ち、鉄鋼、エネルギー、機械製造、林業、食糧の基地として、人民共和国を支え続けたのである。

一人当たりの工業生産額も、中国六大地区では常にトップを独走してきた。

 

(黄文雄著「日本の植民地の真実(扶桑社)」より)

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