満州国が成立すると、日本国内ではこれを承認するか否かで論議が沸騰した。

 

関東軍をはじめとする日本の満州関係者は最初即時承認を主張し、荒木貞夫陸相をはじめ、陸軍も即時承認を説いたが、外務省は諸外国から満州合併との誤解を避けるため、時期尚早と反対したのである。

 

ところが1932(昭和7)年の五・一五事件後、斎藤実挙国一致内閣が成立すると、早期承認の声が高まり、六月十四日、衆議院が全会一致で承認促進決議を行った。

八月二十五日からの第六十三回帝国議会で内田康哉外相は外交演説で次のような主張を展開した。

「昨年九月十八日(柳条湖事件)以降の日本軍の行動は自衛であり、不戦条約は自衛権の行使を制限していない」

「満州国の成立は中国内部の分離運動であり、日本の承認は九カ国条約の違反にならない」、そして最後には

「例え国を焦土と化すとも、満州国独立を擁護せん」と結んだのだった。

これがいわゆる「焦土外交演説」である。

 

日本政府は、第六十三回帝国議会に先立つ八月八日、武藤信義大将を関東軍司令官兼駐満特命全権大使に任命し、九月十五日、満州国全権の鄭考胥国務総理との間で日満議定書の調印を行い、実質的に満州国を承認した。

 

1933(昭和8)年1月20日、満州国は鄭国務総理の名で帝政実施を声明し、満州帝国の成立を日本以外の七十一カ国に通告した。

日本に続いてこの国を承認したのは中南米のエルサルバドルだった。

 

続いて1934(昭和9)年4月、ローマ教皇庁が承認し、37(昭和12)年から38(昭和13)年にかけては、枢軸国のイタリア、スペイン(フランコ政権)、ドイツが、38年10月にはポーランドが承認した。

39(昭和14)年以降はハンガリー、スロベキア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、クロアチア、デンマークなどの北欧、東欧諸国が承認した。

 

このほか、ドミニカ、エストニア、リトアニアは正式承認こそしなかったが、国書の交換を行っている。

その後、大東亜戦争期にはタイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府も承認国となった。

国際連盟が満州国の正当性を認めなかったため、承認国は日本の同盟国など十八カ国に留まったものの、満州国が正真正銘の独立国家であったことは否定しようがない。

 

満州事変後、満州にとって日本以外に最も関係が深かったのが、それまで北満を支配していたソ連である。

ソ連は満州に対する中立不干渉主義を表明していた。

 

当時、ソ連は第一次経済開発五カ年計画を推進していた関係で、関東軍と事を構える余裕がなく、リットン調査団に対しても非協力的な態度を示した。

ソ連は公式には満州国を承認しなかったが、1932(昭和7)年6月にはブラゴベシチェンスク市とチタ市に満州国領事館の設置を認めるなど、対日平和政策から事実上、国家承認の態度を示していた。

 

今日、満州を「偽国家」と断じる中国人は、当時満州を国家と認めていたという問題がある。

 

満州国にとって最も国家承認の動向に関心を寄せていたのが中華民国だった。

1933(昭和8)年5月、日中間の塘沽停戦協定によって熱河省が満州に併合された。

これにより満州と中国は万里の長城を国境線としたわけだが、34年末から35年にかけ両国は相互の列車の乗り入れ、郵便、通電、通航などの問題を解決しており、実質的には中華民国は事実上、満州国を承認したとみなすことができる。

 

しかし37(昭和12)年のシナ事変の勃発により、満中関係は悪化した。

もっともその後12月に北京で成立した中華民国臨時政府とは、翌38(昭和13)年にそれぞれ通商代表部を設置している。

 

40(昭和15)年3月には、中国国内諸政権を統合した南京の汪兆銘の中華民国政府が「日満華共同声明」を出し、同12月には相互承認を行い、翌年(昭和16年)には大使を交換している。

しかし中国に複数存在した政権のうち、蒋介石の重慶政府だけは満州国を否認し続けた。

 

満州国の外交政策は、日本と一蓮托生のものだったが、次いでソ連との関係を重視し、さらに内外モンゴルとの関係に注意を払った。

外モンゴルとの国境紛争は、ノモンハン事件が象徴的であるが、内モンゴルは1935(昭和10)年9月に樹立された徳王を主席とする蒙古連合自治政府が満州と強い友好関係を結んだ。

 

 

(黄文雄著「日本の植民地の真実(扶桑社)」より)

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