十九世紀から二十世紀にかけての中国の経済事情を書き記したものは皆無ではないが、スメドレーの『女一人大地を行く』(1920年)などは、彼女の革命見分記にしかすぎない。

日本ではごく少数の学術論文を除いてはほとんどない。

 

二十世紀前半の中国は、日本の中国古代歴史家が想像するような牧歌的な田園地帯などではなかった。

概して言えば、大地に地主、士紳(地方有力者・長老)、軍閥、匪賊が棲み分けて、農村、都市、山林湖沢をそれぞれ支配していた社会だった。

そしてそこに日常的に襲ってきたのが戦乱、飢饉、流民だった。

 

社会環境とともに自然環境の崩壊が進み、この国は人間地獄となってしまった。

毛沢東の言を借りれば、「一窮二貧」(貧しくて無学無知)の状況だったのである。

このため民衆にとっての桃源郷は外国人管理下の租界であり、租界で暮らすことが人生の最大の夢だった。

中国の近現代史を知るには、このような社会経済学的視点が極めて重要といえる。

 

秦、漢、隋、唐、明、清という呼称は国号ではなく王朝名である。

国号とは、そもそも朝鮮のように中国皇帝から下賜される国の名前にすぎないというのが中国人の伝統的考え方だ。

 

中国では「天下」はあっても「国家」はなく、このような天下国家観からは、領土という概念も生まれなかった。

「天下王土に非ざるものなし」であり、世界はすべて中国皇帝のものという発想であったのだ。

 

中国が初めて国号を名乗ったのは中華民国からだ。

この国家は、過去の中華帝国二千年余の「一君万民体制」「天下国家体制」を否定して、英米をモデルに「近代国民国家」を実現しようと試みた共和体制国家だった。

しかしその実態は、北洋軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦、そして支那事変以降の重慶、南京、延安各政府の三つ巴の内戦、終戦後の国共内戦と、誕生から終焉まで内戦で貫かれ、国家の体をなしていなかった。

 

その間、中国には複数の政府が並存し、それぞれが自らを「全中国を代表する正統政府」だと言い張った。

だから満州国建国後、日本は国際連盟で「中国は国家ではない」「国家の体をなしていない」と主張したのだ。

どの政府も、対外的にいかなる政治的責任も負えない状態であり、これは到底、近代国家だとは言えなかった。

 

このような中国大陸の惨状ゆえ、欧米列強の人間は、宣教師を除いてほとんど中国から逃げ去った。

この飢えた大地は、「侵略」に値しないと考えられた。

残ったのは「四億の民が待つ四百余州」への憧れから、大陸雄飛の夢を抱く日本人だけになった。

 

昭和に入り、中国へ進出した日本軍は、かつての満蒙八旗軍のように、飢える民衆から救いの神、解放軍として迎え入れられた。

彼らは天命を待つか、救いの神を求めるかの二者択一しかなかったのだ。

そして匪賊の跋扈を抑えてもらうため、彼らは日本軍を選んだのである。

 

十九世紀末から二十世紀にかけ、日本の明治維新、文明開化思想に触発されて、維新や革命の輝かしい成功が、中国においても救世の目標と捉えられるようになった。

そしてロシア革命後は共産主義思想も加わり、それが救いの星となった。

 

さて日本軍によって張学良の軍閥や馬賊が平定、駆逐された後の満州が、中国人にとって王道楽土となったことはいうまでもない。

戦乱と飢饉の中国に比べ、塞外の満州は安定し、豊かで衛生的な土地であり、まさに中国人流民の桃源郷となった。

戦後でこそ理不尽な偏見が生じたが、当時、この土地は、地獄ではなく明らかに天国だったのだ。

 

年間百万人前後の人間が、長城を越えてこの地になだれ込んだという一言だけをとってみても、そのことは十分に証明できよう。

 

だから満州国の崩壊は、中国人にとっても大きな悲劇だった。

日本の資本と技術の最大の移転先だったこの国が、もう後十年でも長生きできたら、ここはアジア最大の近代国家となっていたはずだろう。

そして中国の「国のかたち」も大きく変わっていただろう。

アジア社会全体も、もっと多彩なものになっていたはずだ。

「王道楽土の建設」は、単なるスローガンだけではなかったのである。

 

しかし日本と一蓮托生だったこの国は、やはり大日本帝国と心中せざるを得なかった。

満州荒野の一角にユダヤ資本を入れ、欧州で迫害されていたユダヤ人のため、ユダヤ国家の再建の計画もあったが、たとえそれが実現していたとしても、崩壊は免れなかっただろう。

 

この土地が中国に編入された後、中国政府はもっぱらその近代化の遺産を座食することによって命を繋いだ。

そして満州は没落していったのである。

 

(黄文雄著「日本の植民地の真実(扶桑社)」より)

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