漢人帝国・明の時代は、中国史上最大の暗黒時代だった。独裁専制もこの時代に完成し、すべての大権は皇帝に集まった。宮廷には「廷杖」という制度が導入され、皇帝の逆鱗に触れようものならいかなる大臣であれ杖刑に処せられ、老臣の中には耐えきれず命を落とす者さえあった。また当時は人権が最も蹂躙された時代でもあった。宦官を中核とする特務(スパイ)が国内隅々にまで目を光らせていた。明末期には流賊が横行し、飢饉で餓死、共食いがはびこった。

 

そのため清の軍隊、つまり満蒙八旗軍が関内に侵入すると、民衆はそれを解放軍として迎え入れている。北京宮廷の百官は儀杖隊を出迎えに城外へ派遣し、民衆は家々に「大清順民」の黄紙を掲げ、熱烈に歓迎した。

 

満州人王朝・清の中国支配は、「二重帝国」型だった。制度的には清の皇帝は諸民族共通の最高権力者だったが、政治機構は満州人に対するものと漢人に対するものの二つがあった。これには西洋列強の植民地政策に通じるものがある。

 

たとえば、満州人は宦官にしない、漢人を宮女にしない、漢人を藩部、属藩、化外の地に移住させない、対外公文書に漢文は用いない(すべて満蒙文かラテン語)、漢人の夷語(外国語)学習の禁止、夷人への漢語伝授の禁止、満人と漢人の二重官僚制度、皇帝直属の最高権力者である軍機大臣への漢人登用の禁止、満蒙八旗軍を国軍にし、満州旗人(騎兵)は領地を保護され、漢人部隊は地方の国内武装警察である緑営にする、漢人は重臣であろうとも皇帝に「家奴」(家内奴隷)と自称する、などがそうだろう。またモンゴル、回部(現在の新疆ウイグル自治区のタリム盆地)、チベット、台湾への移住禁止など、欧米の植民地支配以上に厳格な植民地政策を、満州人は中国で行っていた。

 

清の皇族は亡国の寸前でさえ、「国家を外人(列強)に渡すとも、家奴(漢人)には渡さない」という主人意識を持っていた。だから清朝は中国人の王朝のひとつではなく、あくまでも満州人は外来の支配者だった。

 

その「植民地統治下」で中国人は、有史以来最も幸福な生活を清の統治下で送っている。康熙(こうき)・雍正・乾隆帝の三代百五十年間は稀にみる盛世だった。

 

人々は初めて人頭税を免除され、人間らしい生活を味わえるようになった。明代末期に減少した人口も、1661年には約2460万人にまで回復し、約百年後の1749年には約1億7940万人に急増している。中国の人口が一億人を超えたのはこの頃が初めてである。さらに1783年には約2億8400万人になっている。

 
(黄文雄著『日本の植民地の真実(扶桑社)』より)

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