満州研究は中国人によってではなく、日本人によって始められた。

中国人のそれはほとんどが満州事変以降からである。

ここにも、中国人がいかに満州に無関心であったかが現れている。

満州に関しては、日本人による研究が世界に冠絶するものと言われ、それなしには満州史は語れないと言われた。

 

日本における満州研究は、すでに江戸時代から満州語や満州事情の研究というかたちで進められていた。

和田清の『明治以降における歴史学研究の発達』によると、江戸時代の満州に関する著作には、荻生徂徠の『満文考』、その弟北渓の『満州始末記』、天野信景の『満州字式』、その他計六巻で、田岡島冠山の『通俗民清軍談国姓爺忠義伝』、間宮倫宗(林蔵)の『東韃靼紀行』、近藤守重(重蔵)の『辺要分界図考』『清俗記聞』等数多い。

 

明治時代に入ると満州研究は、日露戦争以前では主に軍部によって進められた。

当時、史学会の研究対象は、満州より朝鮮半島が中心だった。

歴史学者による系統的研究が行われるのは、その後の満州経営の進展に伴うブームが起こってからだ。

その最大の推進力となったのが南満州鉄道株式会社だった。

満鉄初代総裁・後藤新平に抜擢された東洋学の開祖と言われる白鳥庫吉博士を中心に研究が進められたのである。

 

この時期、有名な研究者としては箭内亘、池内宏、稲葉岩吉、松井等、和田清、内藤湖南、鳥居龍蔵らの碩学の名を挙げることが出来る。

地質、地理、動植物、歴史、考古学、民族などに関するさまざまな学術調査団が現地に派遣され、世界に類例をみない成果を挙げている。

 

当時の満州研究には、白鳥庫吉博士による『満鮮地理歴史研究報告』(全十六巻)を中心に三つの流れがあった。

一つは東大の白鳥博士と京大の内藤湖南博士を中心とする清朝を主対象とした満州史研究、二つ目は現実問題としての満州近代外交史研究を中心とする分野で、三つ目は満州経営のための満鉄と軍部による満州事情調査である。

 

満州研究の中心的役割を果たしていた満鉄学術調査部が廃止されると、その研究の継続は東京帝国大学に委託され、その結果、刊行されたのが『満鮮地理歴史研究報告』だった。

その後の重要な文献としては、日満文化協会が『満蒙史論叢』を、満州国建国後は大連の満州文化協会が『満州学報』、満州史学会が『満州史学』を発行している。

 

しかし日本では戦後、こうした研究は退潮し、それに代わって“日本の満州侵略史”研究が渦巻くことになった。

 

 

 

     満州事変後に満州=中国領土と主張

当時の研究では、「古来満州は中国領土ではなかった」との主張が多く、矢野仁一などはその代表的な一人だ。

和田清の『東亜史研究』(満州篇)の序文には、「満州は、もともと極東の辺陲の地であるから、世界の片田舎であったといえる。歴代の中国王朝からすれば、そこは化外の地であり、清朝の中国征服後にも、満州はその発祥の地であったという関係から、発掘によって秘事を暴かれることを恐れ、その研究を弾圧した。だから、満州史は従来、もっとも閑却され、日本学者の一人舞台になった」と書かれている。

 

矢野仁一の『満州国史』『満州問題について』における「満州は古来、支那領土ではない」とする論は有名だが、それに対する批判も多い。

矢野の主張は、「満州は清国の時代において支那の領土ではなかった」というものである。

それは「満州は清朝の時代において満州旗人の居住地として特別に保留されていた土地だからである」「満州人の王朝、帝国であり、中国人の王朝帝国ではない」という理由に基づくものだ。

 

矢野の『満州国史』は、古代から満州はすでに「満州国」として存在していたとの史観に立っている。

清の乾隆帝時代に編纂された『四庫全書』は中華大百科全書にあたる書物で、そこでは満州は黄帝開国以来、中国と並存してきた国家だとしているが、まさにそれと同じ考えだ。

 

それに対して白鳥庫吉は、満州には一貫したひとつの歴史的発達の体制はなかったとの見方をしている。

たとえば「満州、モンゴル、漢民族争覇の地として、それら三民族の波動は時には北よりも南に、西よりも東に打ち寄せられたのであって、その歴史は断続的であり、一貫せる歴史がない」(『東洋』第三十六巻第三号、昭和九年)と述べている。

 

「一貫性のない歴史」との見方は間違いではない。

それは満州史だけではなく、支配者の交代のたびに歴史の断絶を繰り返してきた中国史にも朝鮮史にもいえることである。

 

中国人は事変後から「満州は古来、中国領土だ」と盛んに主張するようになった。

その代表作が、北京国立中央研究院歴史言語研究所から出版された『東北史綱』である。

溥斯年、方壮猷、徐中舒、粛一山、蒋廷黻ら、当時の代表的学者による共同編集だ。

 

その主張によれば、「満蒙は歴史上、支那の領土に非ずとの日本人の考えは妄説であり、その目的は東北侵略であり、東三省が中国の領土であるや否やは、元来歴史を以って根拠とすべきではない」としている。

つまりその土地が領土であるためには、二つの条件が必要で、一つは国法と国際法の規定、もう一つは民族自決によるべきだというのだ。

 

同書は続けて、歴史からすれば渤海方面は中国文化の発祥の地であり、遼東一帯は古くから中国の郡県であり、白山黒水は古くから中国の藩封であり、満州は明の臣僕であり元の職貢の域である、とも指摘する。

 

『東北史綱』は、中国北部と満州は人種的、文化的、歴史的などあらゆる点で一体であると力説し、「満州」ではなく「東北」と呼ぶべきだと主張している。

 

満州事変後、中国人学者の溥斯年らが『東北史綱』(1932年)を刊行し、満州が中国古来の領土であることを歴史学的に証明しようとしたが、結局は中国人の北方民族との紛争史しか論証できなかった。

 

(黄文雄著『日本の植民地の真実(扶桑社)』より)

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