辛亥革命は「韃靼(タタール)を駆逐して中華を回復する」を旗印に行われたが、これはまさに、漢人の植民地支配からの開放を目指すものだった。したがって中華民国は清帝国の崩壊によって「独立」した国との見方もできる。

 

それならば中華民国政府は、独立当時、なぜ清の属国だった蒙古やチベット、新疆の独立を認めなかったのか?それは中華人民共和国政府も同様で、これら地域を強引に自国領に編入している。その正当性の根拠は「周辺諸民族はみな中華民族だから」というものである。

 

この中華民族という民族概念は、二十世紀に入ってから急ごしらえで作られたものだ。中華民国は成立後、清朝の版図継承を正当化するため、満州民族を含む周辺諸民族を新概念である中華民族に組み入れた。

 

そのため中華民族である満州族の満州は「古来、中国領」であり、満州の歴代王朝は中国の一地方政権だったとの論理が成り立ったのである。もっともそのような主張は、中国にしか通用しない独断である。今日では清朝を中国の正統王朝と認定し、かつて漢民族の仇敵だった満州人ヌルハチを「太祖」と追諡(ついし)し、中国人の民族英雄に祭り上げるなどしている。

 

このようにみれば、中華民国にせよ、中華人民共和国にせよ、自らのアジア侵略を強引に正当化してきたのである。

 

それではなぜ二十世紀の中国は、「中華」の地を拡張しようと考えたのか?

 

清末には「国のかたち」をめぐって、立憲君主制を目指す維新保皇派と共和制を目指す革命派が、日本の明治維新当時の佐幕派と倒幕派のような闘争を繰り広げていた。

 

辛亥革命以前では、保皇派の康有為らは、中華民族(満漢蒙回蔵の五族をはじめとする諸民族を含める民族主義)の創成を主張し、満州民族を主体とする満漢融和を説いた。一方、孫文などで知られる革命派はあくまで大漢民族主義の立場から、満州人の駆逐を主張した。

 

しかし孫文は中華民国臨時政府が樹立されると、蒙・回・蔵諸民族に民族自決を許すと列強の中国侵略を誘発するとの理由で中華民族論に改宗したのだ。もっとも孫文の中華民族主義は、所詮は大多数の漢民族を中心とする、少数民族の同化、漢化を目指すものだった。しかし中華民国時代、そのような一大民族への強制統合は果たしえなかった。

 

その後中華人民共和国は建国当初、社会主義イデオロギーから大漢民族主義や地方民族主義をすべて否定したが、結局は中華世界の五十六以上の民族を統合、融合する必要に迫られ、大中華民族主義を掲げざるを得なくなった。そのような民族主義を鼓吹して民力を結集しない限り、社会主義政権を維持できなくっているというのが現状である。

 

以上のように、現代中国が清帝国の後継者ではなく、新たに独立した国家であるとの視点から、二十世紀における中国の侵略国家としての面影が浮き彫りになってくるのである。

 

(黄文雄著『日本の植民地の真実(扶桑社)』より)

 

 

 

<共和国(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)>

共和国(きょうわこく)は、共和制をとる国家のこと。

王国、帝国などの君主制国家に対して、君主を置かず大統領などが国家元首となっている国家を指す。

 

なお、英語など、多くの言語では「共和国」と「共和制」を言葉の上では区別しないことが多い。

 

現代の共和国は一般に、民主主義に基づき主権が国民に所有され、国民によって直接、もしくは間接に選挙によって選ばれた代表により行使される統治制度を取る。多くの場合、元首として大統領を設置する。

 

もっとも、このような政体を標榜しながら実態は独裁体制である場合も少なくない。(そもそも民主国家と共和国は同義ではないことに注意する必要がある。共和制の記事をあわせて参照されたい)

 

共和国は、必ずしも完全な主権を有している主権国家のみを指すわけではなく、例えば旧ソビエト連邦は15の共和国によって構成された連邦国家であった。また、その解体後に生まれたロシア連邦は連邦構成主体としてタタールスタン共和国などの共和国を抱え、ウクライナ共和国、ウズベキスタン共和国なども国内に自治共和国を抱えている(クリミア自治共和国、カラカルパクスタン共和国)。

 

 

 

<立憲君主制(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)>

立憲君主制とは、世襲あるいは選挙制の君主を元首とする君主制をとるが、君主がもつ権力が憲法によって制限されている政体をいう。

 

イギリスが代表的な例となる。日本の政体も立憲君主制の一例であるとされることが多い。政府の公式見解は日本を立憲君主制としている(昭和48628日参議院内閣委員会、政府委員吉國一郎法制局長官答弁)。

一方、日本国憲法上、天皇は国政に関する権能を全く有さず、したがって、君主の権力が憲法に制限されているという状態にはなく、憲法は全くの共和制を採用しているとする憲法学説も存在する。

ヨーロッパにおいては、主に英国を中心とした北欧が多い。南欧では、1975年に立憲君主制に戻ったスペインを除いて、イタリア、バルカンなどファシスト政権を歓迎した為、第二次世界大戦後、次々に追放され共和制となっている。

 

 

 

<君主制(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)>

君主制(くんしゅせい)は、君主が支配する統治形態(政体)である。君主政ともいう。

現代では通例、共和制の対義語として用いられ、君主制の国を君主国、共和制の国を共和国と呼ぶ。

君主の称号によって、王政、帝政などと呼ぶこともある。

 

政治思想の概念としては、一人の人間が終身で支配する政体を指す。歴史上のほとんどの事例がこの定義におさまるが、例外もある。

 

政治分析の基礎概念として君主制をとりあげ、他の政体と区別して論じたのは、君主を持たないポリスが多数あった古代ギリシャの思想家である。君主制の国がほとんどを占めていた地域では、君臣の関係のような限定的問題を越えて、君主制を国家一般と別に把握する動機が生まれなかった。

 

近代になって、君主制が共和主義者によって脅かされるようになると、ギリシャ・ローマの伝統を復活させて君主制を論じる政治思想が登場した。

 

君主が絶対的な権力を持っている政体を絶対君主制といい、憲法によって制限される政体を立憲君主制という。

 

 

現在君主制をとる国

日本

イギリス

オマーン

オランダ

カタール

サウジアラビア

サモア

スウェーデン

スペイン

スワジランド

タイ

カンボジア王国

デンマーク

トンガ

ノルウェー

ネパール

バーレーン

ブータン

ブルネイ

ベルギー

マレーシア

モナコ

モロッコ

ヨルダン

リヒテンシュタイン

ルクセンブルク

レソト

 

20世紀に君主制から共和制に移行した国

アルバニア

イタリア

イラク

イラン

エジプト

オーストリア

ギリシャ

セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)

中国

チュニジア

ドイツ

トルコ

ハンガリー

ブルガリア

ベトナム

ポルトガル

モンゴル

ラオス

リビア

ルーマニア

ロシア

 

 

 


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