中国史には、2種類しかない。

即ち、自らの内戦史と、北方騎馬民族との抗争史である。

 

唐代までの中国史には、北方の脅威として、しばしば匈奴、鮮卑の名が登場する。いずれもモンゴル高原から大興安嶺(だいこうあんれい)のあたりを自由に行動していた民族だ。

 

中国と匈奴との抗争は、すでに戦国時代(前403〜前221)から始まっており、始皇帝の中国統一後、前215年には、蒙恬(もうてん)将軍が30万人の兵を率いて匈奴討伐を始めたのが有名である。

 

以来、国家規模での北方騎馬民族の討伐が繰り返されてきた。漢(前漢(前202〜後8)後漢(25〜220))・唐(618〜907)時代のごく短い期間を除けば、その多くが失敗に終わっている。

 

漢の高祖は前200年、大群を率いて匈奴を親征(天子がみずから軍を率いて征伐に出ること)したが、冒頓単于(ぼくとつぜんう)の大群に包囲され、単于の皇居に手厚い贈り物をしてようやく危機を脱した。以後、匈奴と兄弟の契りを交わし、皇女の降嫁(こうか)(皇女などが結婚されて皇族の籍を抜けること)と貢物を送ることで、和睦を結んだ。

 

匈奴はモンゴル高原からおこった騎馬民族集団で、漢の時代には強大な匈奴帝国をつくっている。

匈奴帝国は漢と抗争しながら後に南北匈奴に分裂し、その後、東方からやってきた鮮卑族にとって代わられる。

鮮卑族は、鳥桓(うがん)(鳥丸)(前3C頃モンゴル東部にいた狩猟遊牧民族・東胡(とうこ)の後身。)とともにモンゴル高原東端の大興安嶺(だいこうあんれい)から出た遊牧民族である。

鮮卑は後に南北朝時代(439(5C前半)〜589)の北魏王朝(386〜534)をつくる。

南北朝時代(439(5C前半)〜589)とは、江南と華北に統一的王朝が並存、対立した時代で、江南に四王朝、華北に五王朝が攻防し、隋の統一で終わる時代である。

その南朝(420〜589)は、後漢(25〜220)末の群雄の一人曹操(155〜220)が華北で勢力を築き、子の曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼして建てた魏(220〜265)が、劉備が四川で建てた蜀(221〜263)を滅ぼし、その後、魏の帝位を譲り受けて建てられた晋(西晋)(265〜316)が、孫権が江南で建てた呉(220〜280)を滅ぼし統一を実現するが、匈奴に滅ぼされ、晋の一族が江南で建てた東晋(317〜420)滅亡後の宋(420〜479)、斉(せい)(479〜502)、梁(502〜557)、陳(557〜589)の四王朝で、北朝に対し常に守勢であった。

それに対する北朝(439〜581)は、匈奴が南下して晋(西晋)(265〜316)を滅ぼし、華北を中心に、1世紀あまりにわたって争いを繰り広げる五胡十六国時代(304〜439)の五胡十六国(華北で興亡した五胡(匈奴(モンゴル系ともトルコ系とも言われる)、羯(けつ(匈奴の一派))、鮮卑(モンゴル系またはトルコ系と言われる)、チベット系の■(てい)・羌(きょう))の13国と漢人の3国の総称。中国の一部が異民族の支配下に入る。)を統一した北魏(386〜534)から東魏(534〜550)(北魏の分裂で成立)、西魏(535〜556)(北魏の分裂で成立)、北斉(ほくせい)(550〜577)(東魏の宰相の禅譲により建国。北周に滅ぼされる)、北周(556〜581)(西魏からの禅譲により建国)の五王朝で、南朝に比べて君主権が強く、隋(581〜618)・唐(618〜907)への前提をなした。

六世紀末から七世紀初めにかけて中国を再統一した隋(581〜618)、唐(618〜907)は、実は鮮卑族の流れを汲んでいる。

 

匈奴、鮮卑の他の北方の脅威には突羯(とつけつ)がいる。

彼らは、匈奴などと違って西アルタイ山脈あたりからやってきた民族集団だった。

六世紀から八世紀にかけて、突羯(とつけつ)は、中央アジアから満州に至るまでの巨大な遊牧帝国を築き上げた。

 

これら中国人にとっての脅威は中国の史書では西戎、北狄と総称され、犬戎(けんじゅう)や東胡、匈奴、鮮卑、突羯(とつけつ)、回■(ウイグル)、契丹、女真、モンゴルなど多くの種族名が記されている。

 

言語的に言えば、ほとんどがウラル・アルタイ語系で、モンゴル系、トルコ系、ツングース(アルタイ系でアジア大陸東北部の森林地帯に分布し、主として狩猟に従事した)系のおおよそ三つの系統に分けられる。

ウラル語はフィンランド語、エストニア語、ハンガリー語などで、アルタイ語はトルコのチュルク語、モンゴル語、満州語、朝鮮語、そして日本語である。

モンゴル語の文法は日本語と同じ語順になっている場合が多く、単語を置き換えて、日本語の語順で言えば通じる。ぐるっと中国を取り囲んでアルタイ語族が並ぶ形にある。

 

もちろん中国に脅威を与え続けてきたのは、アルタイ語系の騎馬民族だけではない。たとえば五胡十六国(華北で興亡した五胡(匈奴(モンゴル系ともトルコ系とも言われる)、羯(けつ(匈奴の一派))、鮮卑(モンゴル系またはトルコ系と言われる)、チベット系の■(てい)・羌(きょう))の13国と漢人の3国の総称。中国の一部が異民族の支配下に入る。)(304〜439)時代の■(てい)はチベット系であり、羯(けつ)はペルシア系ではないかとも推測されている。

唐、宋の時代の吐蕃(とばん)(7C〜9C)(ソンツェン=ガンポがチベットに建国した国家。チベットの古称。7Cに強勢となり、しばしば唐に侵入し、一時長安を占領。)と西夏王国(1038〜1227)(チベット系のタングート族が寧夏(ねいか)を中心に建てた国。西夏は中国側の呼称。モンゴル帝国に滅ぼされる。)は、チベット系である。

因みに、チベット文字は、ソンツェン=ガンポ(?〜689)(チベットの王)がインド文字を範として作成させたという。グプタ文字が原型と推定され、左横書きの表音文字で、子音字30、母音記号4からなる。

 

中国人はこうした外敵の侵入を防ぐため、秦の始皇帝以前から万里の長城を築いてきた。

もっとも古くから長城を築いたのは斉(せい)(前386〜前221)だとされる。

後に中原の韓(前403〜前230)、趙(前403〜前222)、魏(前403〜前225)も、さらに南の楚(?〜前223)まで長城を造っている。

始皇帝は中国統一後、趙(前403〜前222)、燕(?〜前222)の長城をつなぎ、現在、西は甘粛(かんしゅく)省岷(みん)県臨■(りんとう)から、東は遼陽(りょうよう)までを完成させた。

漢の武帝の時代には、さらに西の玉門関(ぎょくもんかん)まで伸ばした。

秦、漢時代の万里の長城は、現在のものよりも北にあったが、南北朝時代の5〜6世紀にかけて南に移り、隋の時代にほぼ現在の位置となり、完成したのは15,16世紀の明の時代であった。

西の嘉峪関(かこくかん)から東の山海関(さんかいかん)までは、延べ2400キロである。

 

秦の始皇帝が築かせた万里の長城は、匈奴の進入を防いだ。

しかし、秦以後の万里の長城は、北方騎馬民族の南進を阻止できたかというと、ほとんど効果をあげなかったのが実情である。

 

漢帝国と匈奴帝国との境界が万里の長城であることは、『史記』の「匈奴列伝」に「先王の制に、長城以北は弓を引く国」と記されていることからも明らかである。長城は、漢と匈奴との攻防の末、講和条約で双方が取り決めた正式の境界線だった。

 

中華思想では「天下は王土に非(あら)ざるものなし」と説くが、その天下思想とは、実質的には万里の長城以南で、いわゆる「関内」が限界であって、「関外」は天下ではないのである。

 

彼らは何故長城を造ったのか?

 

長城はエジプトのようなモニュメントではない。

遊牧民と農耕民を隔絶する壁であり、まさしく中国版ベルリンの壁なのである。

 

この万里の長城は二つの植生圏を分けている。

北は遊牧民の生活圏である草原、南は中原の民(農耕民)の生活圏の可耕地である。

中国史を見れば一目で分かるが、この二つの歴史世界にはそれぞれに独自の歩みがあり、それぞれの国家、民族の興亡が繰り返された。

 

そもそも中国とは城(城塞)の国で、国とは城壁の内側を意味する。

“国”という漢字もその由来となっている。

城をもたない遊牧の民は、「行国」の民と呼ばれていた。

 

万里の長城の北側の世界とは、中国人が自ら巨大な壁――万里の長城――で分離した「絶対に一緒になりたくない世界」なのだ。

けっして、中国人が今日主張するような「絶対不可分の固有領土」ではない。

 

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