日本の関東軍も、中国の奉天軍も、満州にとっては外来の軍隊だった。

 

関東軍と奉天軍の違いというと、日清戦争のときの日本軍と清国軍の違いと同じである。

関東軍が徴兵によって兵員が組織された日本の国民軍であったのに対し、張作霖の奉天軍は私兵であり、その構成はきわめて複雑であった。

中国の軍隊は共産党の解放軍組織も含めて、徴兵制に基づかない実力者の私兵で構成されていた。

とくに奉天軍閥には、日本の陸軍士官学校の出身者あり、北洋軍閥の新軍創設時代につくられた武学、軍学校の出身者あり、なかには拉致して強制的に入隊させられた者や、取り込まれた匪賊集団もあった。

 

ただの馬賊だった張作霖は、最初、東三省総督の趙爾巽(ちょうじそん)の傘下に入り、1905年の日露戦争のときには日本軍に協力し、1911年、二八師団の師団長となる。

一六年には奉天将軍、段芝貴(だんしき)を追い、やがて奉天軍閥のボスにのしあがった。

 

奉天軍閥の最盛期には、航空機を120機あまり、火砲580、迫撃砲1000あまりの兵器を備え、36万5000の大軍を率い、蒋介石直系軍を上回る実力を持った。

しかし、奉天軍には二つの弱点があった。

 

一つは、奉天軍は人民に課す重税に頼り、苛斂誅求(きびしくむごい税金の取り立て)のあまり民衆からの支持がなかったことである。

1926年度の奉天の財政支出は1億5534万元だったが、そのうち1億4714万元が軍事費にあてられていた。

じつに95%が軍備に使われているのである。

リットン報告書には、満州では民衆のうらみが極限に達し、保境安民(住民保護)の運動が起きているとある。

 

もう一つの弱みは、兵員が国民軍としての訓練がなされていないため、結束力が弱いことであった。

だから少数の関東軍の一撃で、内部はすぐバラバラに分裂してしまった。

 

では、日本の関東軍とはいったいどういった軍隊組織であったか?

これは日露戦争後のポーツマス条約によって、南満州鉄道本線および安奉線などの鉄道沿岸の警備のため、租借地である関東州(旅順、大連を中心とする遼東半島南端の租借地)に設置された駐屯部隊である。

 

満州事変では、わずか1万600人の関東軍が15万人以上の兵力を有する張学良軍を掃討し、奉天、吉林、黒竜江の東三省と内モンゴルの熱河省を支配下に置いてしまう。

何故そのようなことができたのだろうか?

 

それは奉天軍が3000万以上の住民の支持を得られなかったからである。

満州事変の直後、軍閥打倒と悪税撤廃をスローガンにして、奉天地方自治委員会会長の袁世凱が独立を宣言、吉林省の東北地区防軍参謀長の煕洽(きこう)も同じ年の9月に独立を宣言し、同様に熱河省主席の湯玉麟(とうぎょくりん)、東辺道の于■山(うしざん)、■南(ちょうなん)の張海鵬(ちょうかいほう)も次々と独立を宣言し、張学良軍閥と袂を分かった。

それほどまで奉天軍閥は一般の支持を失っていたのである。

 

満州事変後の首都奉天市長・趙欣伯(ちょうきんはく)氏(明治大学卒法学博士、張学良の法律顧問)は、「日本軍隊が張学良とその軍隊を殲滅し、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しなければならぬ」と日本に対して感謝している。

 

満州事変の前の全満州(東三省)の1929年度の財政をみると、歳入は1億2100万元、歳出は約1億4800万元で、2700万元の赤字である。歳入の大部分は、塩税と阿片が中心である。そして、歳入不足をまかなったのは、なんと私的な財産の強奪、恐喝、誘拐であった。

 

満州の地は、移民の土地であるとともに無法の土地でもあった。

例えば馬賊・匪賊は推定で、30万人から300万人いた。

馬賊と軍隊との違いというと、はっきりとした区別はなく、軍隊も兵匪と称され、兵匪は公然と民衆から掠奪、馬賊は私的な略奪という相違だけであった。

略奪、放火、強姦、誘拐は日常茶飯事で、民衆は生きていくだけでも容易ではなかった。

満州の民衆は、搾取と掠奪で塗炭の苦しみに喘いでいた。

 

満州国建国に弾みがついたのは、満州の民衆が関東軍を敵視しなかったからである。

日露戦争以来、日本軍の軍事行動はロシア軍や満州軍閥とは異なり、軍律正しく略奪行為を行わなかったため、その好印象があって関東軍を軍閥支配から救ってくれる解放軍として迎え入れたのだ。

 

今日、満州国の成立は、「関東軍の陰謀」の一言で片付けられがちだが、いかに近代的な装備を施した関東軍でも、民衆の支持がなければこれほどのことは出来なかっただろう。

 

しかし、中国人だけでなく戦後の日本人からも、関東軍は満州侵略の張本人として悪名が高い。

そもそも満州の地には法治がなかったことはもとより人治すらない、軍閥、匪賊が支配、跋扈する無法地帯だった。そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代アジアにおける奇跡として明記されるべきだろう。

関東軍の歴史評価の上で最も大切なのは、住民を苦しめ続けてきた軍閥、匪賊を満州から駆逐して社会に秩序をもたらし、王道楽土の近代化建設の基を築き上げたとの功績ではないだろうか。関東軍が存在しなければ、満州の地に平和は到来しなかったのだ。

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