中華民国は建国当初、清朝と協定を結び、宣統帝(溥儀)の退位後は、皇位を廃することはせず、外国の皇帝としてその存在を容認した。

ところが、二年後の1914(大正3)年2月、大総統令一本でその退位協定を一方的に廃棄し、「大清皇帝は本日限り永遠に皇帝の尊号を排除し、中華民国の国民として一切の権利を同等に享有す」とした。

 

もちろん宣統帝はこのような協定の変更を容認せず、日英蘭三国公使に調停を依頼したものの、何ら効果を得られなかった。

中華民国政府はさらに、皇帝および満蒙王族に対する優待条件まで廃止し、北京の紫禁城にあった皇室財産を没収し、財宝の掠奪を行った。

また軍隊を用いて皇室の御陵を発掘し、副葬品の財宝を売り飛ばして内戦の戦費に充てている。

 

このような経緯から、宣統帝は満州における腹辟を希望し始めている

その彼を保護し、擁立して満州人のための国家の建設を目指したのが日本だった。

 

建国に携わる人々においては、溥儀を元首として戴くことで意見は一致していたものの、国号、年号、国旗、国体、政体については様々な意見が出されていた。

国家体制では帝政、王政、共和制が提案され、元首には皇帝、大統領、監国などが主張された。

張燕卿、謝介石、邵麟らが帝政論であったのに対し、張景恵、臧式毅、趙仲仁らは立憲共和制論者だった。

国名には大中国、大同国、満蒙自由国、満州国などの候補が挙げられた。

 

満州事変後、在満日本人の意識には大きな変化が起こる。

彼らの間では、それまで、満州における「日本の特殊権益」を死守する志士型の意識が主流だったが、事変後は満州、モンゴルの独立を目指す独立建国論者へと変わり、新しい国家建設に情熱を傾けるようになった。

建国に奔走したのは日本人だけではない。中国人も満州人もモンゴル人も情熱を燃やしていた。

 

当時、日本人の構想も様々だった。

関東軍参謀部の土肥原賢二大佐は、日本人を盟主とする五族協和国案を、参謀本部の建川美次少将は宣統帝を首班とする親日政権樹立案を提示している。

 

満州青年連盟の中西敏憲(満鉄本社文書課長)、升巴倉吉(満鉄社員)らは東北自由国(のちに満蒙自由国)を提案し、『満州評論』主筆の橘樸(しらき)は民族連合国家を主張した。国民外交協会書記長の高木翔之助は、日満漢蒙四族協和の立憲国家である満蒙独立共和国論を展開し、また分権的自治国家、デモクラシーを基調とした農村自治国家などの構想もあった。

 

日本人の間ではアメリカ合衆国を建国のモデルとして考えていた者が多い。

たとえば矢野仁一もその一人である。

その著書『満州国史』にはこうある。

「私はかの荒蕪未開の地に過ぎなかったカナダや米国の中西部諸州が、アングロサクソン民族の手によって百年そこそこで一変して世界工業の中心となり、西洋の資本主義的物質文明の中心になったことを考え、それに反して満州、蒙古が亜細亜人の手にあること数千年にして、今なお未開荒蕪の地として土匪、馬賊の跳梁に任せつつある状況を考え、欧米人とアジア人との差異を想像して実に感慨なきを得ないのであります。いまや新満州国の建設によって、満蒙の土地において、王道主義の東洋の政治、東洋の文化が、西洋文化の長所を利用することによって、またその短所欠点を除去することによって将に実現せられんとするような状況であります。」(「建国祝賀大会最終日放送」)

 

この一文により、当時の日本人たちが、西欧が北米大陸を開拓したことを強く意識していたことが分かる。

 

満州の国のかたちをめぐって議論百出、その帰趨定めがたい状況下で、張景恵が「いずれの国体でも差し支えない。独立できればそれでいい」と発言した。

そして折衷案として溥儀を執政とする民主共和制が決定され、国号を満州国、国旗を五色旗、国都を新京と定めたのだった。

 

 

 

     アジア最高の国家モデルだった満州国

 

もし満州国が今日まで存続し続けていたら、中華世界はすっかり変わっていたに違いない。

 

なぜなら豊富な資源と日本からの資本や技術の移転により、少なくとも日本と並ぶ、場合によっては日本をも超える力を持った近代的多民族国家が東北アジアに出現していたかもしれないからだ。

これは荒唐無稽な話ではない。

今も残る満州国十三年半の遺産がそれを物語っている。

 

満州国は「第二のアメリカ合衆国」をアジアに打ち立てることが出来るかどうかという大きな実験でもあった。

 

中華民国にしてもアメリカ合衆国をモデルに樹立された共和制国家だった。

しかしそれは見事に失敗し、複数の政府が乱立する戦乱国家に陥っている。

その最大の理由としては二千年来の「一君万民」の伝統が重くのしかかっていることが考えられる。

共和制、連邦制への理解が不足していたのはそのためであり、武力統一を志向して政争、内戦を繰り返した。

 

その点、満州国は違っていた。

満州は四千年来、中華世界の外にあったからこそ、そこには多民族国家の歴史的経験があった。

満州国がアメリカ合衆国と酷似している点は、豊富な資源と未開発の地域がたくさん残されていたことと、諸民族統合の新興移民植民地だったことだ。

 

満州は、日露戦争前には欧米の学者から、未開の宝庫として注目されており、まさに開拓前の新大陸アメリカに似ていた。

緯度を見れば、奉天はシカゴ、大連はボルチモア、ハルビンはモントリオールと同じ位置である。

風土も開拓以前のアメリカ大西部に似ていて、歴史的にも地理的にも、この地はアジアのアメリカとして未来への可能性が非常に高かったのである。

 

「王道」という中華思想と、「楽土」という仏教浄土思想、さらに「民族協和」との多民族社会の共存共栄思想、近代産業社会と法治国家の建設という近代思想といった東西文明の融合、習合の申し子が満州国だった。

 

そのことは建国に際して世界に向けて公約した次の三項目からも窺い知る事ができるだろう。

@     現有の漢、満、蒙および日・鮮の各族を除くその他の国人で、永久に居留を願う者もまた、平等の待遇を得ることができる。

A     王道主義を実行し、必ず境内一切の民族を幸福にさせる。

B     信義を尊重してつとめて親睦を求め、およそ旧有の国際法の通例は尊重する。中華民国以前の時代に各国と定めたところの条約、債務のうち、満蒙新国家領土内に属するものは、国際慣例に照らして継続、承認する。

 

このような理想的方針を、関東軍をも含む政府主導部が、頑なに守ろうとしていたのが満州国だ。

この若き国は、人々の理想と情熱の結晶のようなもので、中国はもとより、他の国にはなかなか見出し難い清廉さがじつに際立っていた。

 

戦後アジアの新興国はすべてが多民族国家だ。

ベトナムやミャンマーでは、五十以上も民族が生活しているし、フィリピンやインドネシアにいたってはそれ以上である。

中国にしても五十以上もの他民族を抱える複合社会である。

まさに「民族協和」を目指した満州国は、アジアが追い求める最高の国家モデルであり、その崩壊はアジアの理想の崩壊でもあった。

 

 

 

     実現しつつあった「王道楽土」

 

満州国は「順天安民」「王道主義」「民族協和」「門戸開放」の四つを建国の理念とした。

 

このうち「順天安民」「王道主義」は、儒教理念からくるものである。

元号も儒教思想によって「大同」と定められた。

 

他方、「民族協和」と「門戸開放」は必ずしも儒教に基づいてはいない。

むしろ新時代を切り開こうとの意気込みを感じさせる。

「門戸開放」には

当時のアメリカの影響が考えられる。

 

アメリカは十九世紀末からの列強による中国分割に出遅れ、機会均等、門戸開放を提唱していた。

もちろん近代国家を目指す満州国としては、東アジア伝統の鎖国国家になるつもりはなかった。

また門戸開放は、孤立から脱却するために必要不可欠の条件でもあった。

 

「王道主義」については、麻のごとく乱れていた当時の中国情勢を知れば、多くの人が王道楽土を求めていたことによる。

「王道主義」は民族主義が世界の一大潮流になる以前において、中華帝国の正統主義原理だった。

当時、中国では「三民主義」が主流となり、それに対抗するかたちで「マルクス・レーニン主義」も台頭していたが、それらに満州国が対抗するには「王道主義」しかなかったのではないだろうか。

 

ただ、その後の国際情勢の変化により、日本の「惟神(かんながら)の道」の神道思想、さらには「日満一体」「大東亜共栄圏」といった日本的儒教思想をベースにした国家理念へと推移していく。

 

このように満州国の国家建設、国民統合の理念は不安定さがあったが、それでも国民生活については戦乱の中華民国に比べれば、はるかに安定したものであり、「王道楽土」が実現しつつあった事実を忘れてはならない。

「王道主義」「民族協和」の建国理念を広く国民の間に定着させるため、協和会が1932(昭和7)年に結成された。

その中心的人物は満州青年連盟の山口重次や小沢開策である。

名誉総裁には皇帝溥儀が就任し、名誉顧問には関東軍司令官が就いた。

会員総数は1934(昭和9)年で約30万人、38(昭和13)年には百万人、44(昭和19)年には人口の十分の一にあたる430万人に膨れ上がり、官民一体の王道楽土建設運動が推進されたのである。

 

 

(黄文雄著『日本の植民地の真実(扶桑社)』より)

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